深井山 淨信寺 (稱名院) 葛飾組 148 |
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当山は、もと西深井古谷坪(現地点より北西約500m)にあって一大伽藍を構えていたといわれる。現に西御門とよばむる地名の残っているのは、往時の名残りでもあろう。およそ20年ほど前、野田市在住の国学院大学の某教授が、その遺跡(現在は畑地になっている)から瓦・礎石等を発掘したことがあり、市の博物館に陳列されている。現在地への移 | |||||||||||||||||||||
転の時期・事由など一切不詳であるが、おそらく古文書・什物等もその間に紛失したものであろうと推量される。しかし現在の位置は日光街道に面し、諸大名の参勤交替の行列など往来が頻繁であったと伝えられるから、移転も相当古い時代にさかのぼる | |||||||||||||||||||||
ものと思われる。 また、戦前までは田畑4町歩余りを保有し、小作料・年貢米90俵等が年収の基礎になっていた。十夜の田・施餓鬼の田などを資に、それぞれ盛大な法要が営まれ「十夜寺」の名で知られていたが、戦時食管法・戦後の農地解放等で事情は一変してしまった。昭和33年、寺有の山林3町歩余りのうち約1町3反を売却して資金とし、本堂屋根を瓦葺に改修し |
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た。 御本尊の阿弥陀仏は、製却年代・作者ともに審らかにしないが、藤原時代の定朝式の特徴を備えた古い作風である。また両大師の座像は、当山十八世・心譽上人が、江戸浅草の釜谷宗兵衛の協力のもと、助力者千人に勧進して、元禄15年10月15日に造立したものであると伝えられる。 |
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(「千葉県浄土宗寺院誌」(昭和57年刊)より 深井山 浄信寺 称名院 03.03.10掲載) |
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