人の法孫で当時学徳一世に高かった増上寺3世音譽聖観上人について法脈を受け、さらに鎌倉光明寺六世常譽良吽上人に布薩戒を受けられた。
愚底上人はその後郷里洗馬に帰って大いに布教教化の実を挙げられ、その教門に集まる老若男女が多かったが、寛正の初め(1460〜1465)に下総国鷲野谷の地に往かれたという。当時信州からはもちろん江戸から遠く東に離れた未開の地である鷲野谷になぜ往かれたかということについては確たる伝承がないが、この鷲野谷は幽遼蒼巒の境にあって薬師如来霊應の地と伝えられ、かねて愚底上人は信州洗馬の東漸寺再興の際にも薬師堂を別に建て判官の念持仏であった薬師如来を安置されたという故実から考えると、薬師如来に対して格別の信仰をもっておられたようで、鷲野谷来往もこの薬師霊應の地ということに関係があったと思われる。この鷲野谷で堂宇は廃損して薬師如来を安置した一小堂を残すのみであった草庵を村民と相謀って再興し東光山安楽院医王寺と称してここに暫く止住された。その時、上人が持念の間、堂前の楓樹に薬師の霊像が来現して毫光を放つという奇瑞があったと伝えられる。その後数年を経て小金県根木内村に相応の地を卜しここに初めて信州東漸寺の寺号に模して佛法山一乗院東漸寺を開創され年来護持の阿弥陀如来の尊像を安置、さらに別堂を建てて薬師如来を安置された。これが文明13年(1481)である。愚底上人は晩年再び鷲野谷に帰り永正14年6月6日この地で入寂された。
東漸寺が根木内から現在地に移ったのは根木内開創から約60年前後を経た、天文年間(1532〜1554)で、5世衍譽吟公上人の代であった。寺伝では根木内の地が狭少でかつ堂宇もいたく破損していたので、当時小金の城主であった高城氏城下の現在地に移し、ここに初めて大殿、長廊、方丈、厨舎がすべて完備したと記述されている。
この後、さらに東漸寺を檀林として発展させたのは、第7世照譽了学上人である。父が城主をつとめていた小金大谷口城の出城ともいわれる浄土宗・東漸寺で幼い頃出家し、長じて東漸寺七世となりました。
名僧という名が高く、名槍「蜻蛉切」で著名な本多忠勝(上総大多喜城主)、土井利勝(下総佐倉城主)ら徳川家重臣の帰依を受けました。秀吉から関東への移封を命じられた徳川家康は、江戸へ入ると駿府にわざわざ東漸寺住職了学上人を招いて受戒の師としました。
慶長2年(1602)には、関東十八檀林の一に列せられ、境内に結頭、結衆、学頭、真教、辯超、学典、祐玄、専住の八つの学寮があって400人の学徒を収容し、宗乗、余乗についての研鑽と同時に修行の道場でもあった。これより以後研学修行の徒が四方より雲集し、名実ともに、大法瞳として学行兼修の大叢林となったと伝えられる。この意味で照譽了学上人を東漸寺歴代中、中興の祖と仰いでいる。
その後、了学上人は弘経寺(茨城県水海道市)の再興を果たし、大多喜の良信寺、松林寺を建立しています。本多忠勝亡きあとも本多家との交流は深く、忠勝の次男・本多忠朝、その甥・本多忠刻(播磨姫路藩主)、その妻・千姫(徳川秀忠娘)も了学上人を師として帰依しました。
二代将軍徳川秀忠の病の際には、了学上人が病気平癒を祈祷するほど信頼され、秀忠から芝増上寺の貫主となるよう依頼を受け、寛永9(1632)年1月、増上寺17世貫主に就任し、さらに徳川秀忠がお亡くなりになった際は、大導師として葬儀を執り行いました。了学上人は永禄8(1634)年6月12日、97歳で示寂しました。
了学上人の活躍と名声で研学修行の徒が四方より雲集し、手狭になった堂宇の改修は、第八世霊譽円應上人が元和年間に、一四世流譽古岩上人が延宝8年にそれぞれ改修の業の発願が行われたが、大改修が行われたのは二十世の衍譽利天上人の代であった。既に十八世の順譽霊鑑上人の頃から大殿の破損のため改修を企図されていたが早く示寂して果さず、利天上人の頃には大殿も傾いて破損が著しかったようで、上人は従来、蓄積された修補金では足らず、常州下妻水海道や野州宇都宮等に巡錫して勧募し、遂に享保7年(1722)7月にこれを成就された。利天上人は後に常福寺、光明寺を経て増上寺の大僧正に任ぜられたが、上人以後寺史に記されている。なお歴代住職中、知恩院、増上寺、金戒光明寺、百萬遍知恩寺など総大本山に昇任した名僧を輩出したことは寺史に誌すところである。
江戸時代に徳川幕府の擁護を受けた東漸寺も、明治初頭に、明治天皇によって勅願所(皇室の繁栄無窮を祈願する所)に指定されたものの、廃仏毀釈等で、神殿、開山堂、正定院、浄嘉院、鎮守院などの堂宇を失ってしまいました。また、学寮およびその敷地は、地域青少年の育成のために寺子屋として利用され、後に黄金小学校(現・小金小学校)となりました。
幕末以降の経済基盤となっていた広大な寺有田(現在の新松戸周辺)は、第2次大戦後の農地解放で失い、境内もかなり荒廃していました。しかしながら、歴代住職の尽力により、関東屈指の多数の文化財ならびに檀林の面影を伝えてくれている境内の古木や巨木が昔のまま保存され伝えられてきたことは、東漸寺の復興に大きな力となりました。
昭和38年に、寺子屋教育の再現を目指して東漸寺幼稚園を開設、昭和40年後半より、開創500年記念復興事業として、熱心な檀信徒の協力を得て、本堂、鐘楼、中雀門、山門、総門の改修、書院の新築、平成8年に観音堂の再建、平成20年には本堂内々陣の改修を完成し、現在にいたっています。
現在では樹齢330年を誇るしだれ桜や鶴亀の松、参道の梅やあじさい・秋のもみじなど、四季折々の自然に触れ、日本の伝統美を感ずることのできるお寺として、また、1月の初詣、4月の御忌まつり、10月のぶらり市、12月の除夜の鐘、また最近では本堂でのコンサートなども開催されて毎年、多くの参詣者が訪れます。
圓光東漸大師香衣遺像
法然上人(円光東漸大師)が入寂されて、16年後、嘉禄の法難に高弟の法蓮房信空等が上人の御骸を護って埋葬されていた大谷から嵯峨、太泰、粟生野と順次これをお遷し申し上げたが、この粟生野で二位禅尼から贈られた香衣をお着せ申して、そのお姿を彫刻した御遺像で霊元天皇が天覧され、叡信浅からず、比類のない尊像として「香衣大師」と称された。
この像はその後、京都東山の長楽寺に安置されていたが、関東化縁の懇望があったため江戸へ遷座、増上寺40世衍譽利天大僧正(当山20世)は黒本尊の堂内に仮に安置、増上寺41世通譽大僧正のとき長楽寺より時の当山23世霊譽鸞宿上人(後、知恩院大僧正)に寄附、享保20年(1735)当時の長楽寺からの寄附書状の写が寺史に記載されている。以来当寺に安置されることになった。
当山で御忌が行われるようになったのもこの翌年の享保21年(1736)、この鸞宿上人の代からである。遺品である貴重な法然上人の伏鉦(安元2年銘)もこの遺像と一緒に当寺に伝わっている。
念仏の声がする処、いずこも法然上人の御遺跡であることは言うまでもありませんが、江戸時代になると各種の霊場巡礼が盛行する中で、浄土宗においても宗祖の遺跡を二十五箇所に定め、宗祖を欣慕する巡拝が始まります。宗祖の遺跡巡拝に関する最初の書物として、難波の宗侶恋西庵順阿霊澤が明和3年(1766)に撰述した『圓光大師御遺跡二十五箇所案内記』があります。これをもとに昭和49年(1974)に浄土宗開宗800年を記念し、「法然上人二十五霊場」が再興されましたが、霊澤もその書に、列挙した25箇所の御遺跡の他、関東まで廻国行脚の志がある人のために、「附録番外之寺院」の部分に下総国小金の東漸寺に行くことを勧めています。
佛法山一乗院の扁額
山門に「佛法山」本堂正面に「一乗院」の扁額があるのは、明の何倩甫の筆で十四世流譽古岩上人の代に内藤左京より寄附されたもので、「佛法山」のみは何倩甫の真蹟が現存している。また、本堂正面廊下にある「法王殿」は、知恩院宮尊秀法親王筆の扁額である。
勅願所の論旨
明治2年2月23日勅願所の論旨を賜った。勅願所というのは皇室の宝祚無窮を祈願する寺として特に指定されたもので、この論旨のほかに当時住職であった48世詳譽豊舟上人に対し紫衣被着の上参内すべき旨の同年正月24日付の論旨も現存している。総門の向って右には「勅願所」の石碑が建っている。
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