雲通山 昌福寺 (智光院) 東総組 108 |
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永正11年(1514)名越派中興良榮上人の末孫・太蓮社良翁上人の開山と伝えられるのみで、詳細は明らかではない。江戸末期までは山門・鐘楼堂・僧坊等が整っていたという。現在は本堂のみが往時の遺景をとどめている。 この現本堂の建立は、昭和41年(1966)に屋根大改修の際発見された二枚の棟札によ |
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り判明した。これによると、徳川八代吉宗公の時代、大沢山円通寺二七世良譽上人の弟子・当山中興十一世良正上人により建立された。規模は十間四面総樫造り、天井に百花の絵、内陣欄間に彫刻を配したものである。この建立に大工2712人半、木 | |||||||||||||||||||||
挽1940人の人数と240両の総工費を要し、享保16年(1731)2月より檀信徒の奉加が始まり、元文2年(1737)11月7日棟上、元文5年(1740)3月15日入佛までの間に2度の洪水に見舞れながら、実に9年間の日時を費したと記るされている。特に2度の洪水により資金調達には檀信徒・住職共々腐心した模様で、前住職歓蓮社良喜上人も隠居の身ながら勧進されたことも記してある。 |
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寛延元年(1748)、十一世上人から十三世上人にかけて常什物月牌祠堂金の記録と、安永8年(1779)6月、十三世常蓮社良行上人代に大門建立の記録があり、その他わずかな記録を総合すると、十一世上人から十四世上人にかけて堂内・境内諸整備がなされた様子で、各上人の弟子等の記録と併せて、この頃が当寺の隆盛期であったと推察される。 尚、当山歴代上人の中で大沢山円通寺に係る記録が見られるところから、大沢山と本末関係にあったと思われる。 |
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(「千葉県浄土宗寺院誌」(昭和57年刊)より 雲通山 昌福寺 智光院 03.03.10掲載) |
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