野中山 淨光寺 (正法院) 東総組 105 |
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当寺の沿革は応永30年(1423)1月頃、千葉家末葉小見川城主・粟飯原左衛門の支流で大倉城主・大藤大膳の領地であった大倉村野中に、開山・登蓮社玉譽上人が正法院と宝樹院を創立 したのが始まりである。後の応仁元年(1467)に、粟飯原家家老職・成毛対馬守が、菩提寺である宝樹院を一の分目に移転させ、 |
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ここを野中山善雄寺と号した。 一方、長享元年(1487)に百姓の椿久右衛門・鳥羽勘衛門・小竹政右衛門など百姓15人ほどが集まって、香取郡飯島村の開墾に着手し、42年後の享禄元年(1528)に、 |
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東蓮社覺譽上人が大倉村野中にある正法院を飯島村に移転させ、ここを野中山正法院浄光寺と号し、覺譽上人を当寺の開山とした。 その後享和元年(1801)に本堂等が焼失し、寺の諸記録・歴代の什物・過去帳までも焼いてしまった。しかし享和2年、第二一世・棟蓮社梁譽上人が本堂等を再建した。焼失した過去帳は、第三一世・真蓮社暢譽上人が生涯をかけて復元に努力し、 |
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明治8年7月に完成させた。永享6年(1434)よりの物故者が記載されている貴重なものである。明治42年(1909)利根川改修工事により、本堂等が現地に移転された。この浄光寺は佐原市の中心地より4kmほど離れた北西の地にあって、すぐ前に利根川が流れる風光明媚な地に本堂等の伽藍が建てられている。 | |||||||||||||||||||||
(「千葉県浄土宗寺院誌」(昭和57年刊)より 野中山 浄光寺 正法院 03.03.10掲載) |
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