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冬父山 迎接寺 (三世院または淨光院)  東総組 102

 当寺の創建は古く、たび重なる火災により確たる記録を失なっているが、古来より阿弥陀信仰の霊場として広く知られ、天台・真言・浄土宗兼学の道場として隆盛した大伽藍であった。
寺伝によれば、弘仁3年(812)弘法大師弘通のため、大和国法隆寺に御参籠せしとき、夢に高僧紫雲に乗じて現われ、聖徳太子彫刻
せらる三尊の仏を守護して東国に下降し、広く衆生済度せよとの霊告あり。大師ただちに東国に降り、下総の並木城下に着いたおり、城主神崎多五郎入道政吉、夢告により大師に拝することを得る。政吉、大師の請いにより大檀主となり、一三の霊水ある
当山に根本多宝七堂伽藍を創建し、太子彫刻せる三尊を本尊とする。
 その後、仁明皇帝御勅願所となり、承和11年(844)織田公より200戸を賜わる。
  長徳3年(997)恵心僧都当山に住し、顕密兼学の大道場として栄えた。或日、僧都にわかに悶絶して落日に至り蘇生す。この時、極楽浄土、一百三十六地獄を御感得す。この極楽地獄の様子と、阿弥陀如来の衆生済度
の姿を伝えんがため、判談法会の御志願を発し、同4年2月より鬼仏十二の御面像を彫刻す。この時、観世音来現し、金の蓮花を授けたという。この観世音御影向にちなんで、観音三三身の利益を表わし、33年に1度宛開帳することになった。これが当山の鬼面判談法会の由来である。
 また、嘉暦2年(1327)、一説に喜吉年中(1441頃)観蓮社良譽喜上人住し、天台・真言・浄土三宗兼学の道場となり、寺門益々隆盛して関八州・奥羽二州に知られ、関東夕陽高野山と称される。しかし、永禄2年(1568)6月7日兵火の為に廻縁・荘園・重宝等残らず焼失し、開基より756年の法燈と兼学の規則を失い、浄土の宗風のみ残り、寺門衰頽す。こうした由緒を残しているので、慶長4年(1599)11月信蓮社良心理天上人、縁起六巻を装録し、第一巻を大和国・法隆寺、第二巻を高野山・蓮花谷、第三巻を比叡山・横川恵心院、第四巻を総本山・知恩院、第五巻を野州・大沢山圓通寺、第六巻を当山宝庫に納めたという。
 さらに一説によると、良喜上人住すると帰依する者多く、新たに洪鐘を納めるにより浄土宗の道場となるも、後に兵火にあい伽藍衰微する。天文2年(1533)村人に請われ、良迦上人の弟良晃上人が中興となり、浄光院と改号する。良晃上人のあと良興上人・良賢上人・良勤上人住し、宗風大いに振るい寺門栄える。
塔頭7ヶ院あり、明治6年(1873)に廃された。当時域内に六堂・五木・十三井あった、と伝えられている。
当寺「鬼面判談法会」の記録は、永禄7年(1564)より弘化5年(1848)の間に10回、33年に1度宛欠さず修行している。法会修行日数は晴天10日間、江戸末期になり7日間になっている。この間、延享3年(1746)、明和5年(1768)、寛政11年(1799)に火災にあう。この3度の火災により伽藍・旧記等ことごとく焼失するも、本寺大沢山円通寺に有った冬父山本尊並鬼面略縁起・判談法会次第等の記録を書写し、これにより判談法会を上演したという。尚、最近では、大正5年(1916)、昭和22年(1947)に修行されている。

(「千葉県浄土宗寺院誌」(昭和57年刊)より  冬父山 迎接寺 三世院または淨光院 03.03.10掲載)


開   山
 弘法大師
開創年次
 812年(弘仁3年)
現 住 職
 杉山 弘信
指定文化財
  
年中行事
 
事業活動
 
住   所
 成田市冬父86
電   話
 04769−6−1894
交   通
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