一立山 浄國寺 (無衰院) 東総組 94 |
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三祖良忠上人開山であるが、浄国寺所蔵「海上郡浄国寺事実」によると、時が移り変り、当山の開基事実を訪ねても定かでないと史料のなさをなげいており、中興助上人は、この地が良忠上人ゆかりの地であるとしてここに庵を結んだとある。その後、寛文元年(1661)に顕譽智典上人が庵室をたずね、現在の地に一寺を建立することを願い、深川 | |||||||||||||||||||||
霊巌寺の末寺となった。そして一立山無衰院浄国寺と号したとある。 また浄国寺々宝「称讃寺規式条々」には、この寺号に関して、文化七年(1810)以前は東照山称讃寺と号したが、寺が衰廃してしまい、現在の辺田村に再建したが、寺号 |
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が徳川家に対して申し訳ないので、熊野権現の夢告に従って今の寺号にしたとある。現在の概観はその後、延宝から正徳年間までにできあがった。 『浄土宗全書』所収「深川霊巌寺志」に「開山記主禅師東関開創四八宇の随一と云々」とあり、現在県下浄土宗寺院筆頭の別格寺院である。 当山には、望西台と呼ぶ庵があって、明和 |
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年間から文化・文政年間にかけて、渡辺華山・小林一茶を始め、数多くの文人墨客がここを訪れ、多くの作品を残している(墨画帳に現存)。現在、書道教室等により、古来の寺風を継承している。詳細は当寺発行『無衰林』参照。 | |||||||||||||||||||||
(「千葉県浄土宗寺院誌」(昭和57年刊)より 一立山 浄国寺 無衰院 03.03.10掲載) |
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