光明山 守永寺 (清昌院) 千葉組 92 |
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養老年間、行基菩薩の開山により光明寺と称したと千葉県歴史年表にあるのが初めである。 その後慶長13年(1608)に、当時の五井城主松平家信の母 、長恩院殿心譽理安大姉(伝通院殿、つまり徳川家康公の母君・於大の方の姉に当たる)の御真廟と御位牌を安置し、その御追孝の為に知恩院第三二世 |
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・生実大巌寺三世、檀蓮社雄譽上人松風霊巌大和尚により中興開山され、理安寺と称した。 のちに五井が天領となり、領主神尾五郎大夫守永の統治する所となったが、明暦3 |
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年(1657)江戸・振り袖火事の際に五郎大夫守永の上屋敷も焼失してしまった為、当時理安寺の本堂を江戸に移して屋敷にしたという。ところが毎夜毎夜奇異なことが起こり、しかも翌年の万治元年(1658)10月18日には五郎大夫守永の正室、清昌院殿専譽真光大姉の死を見るに及び、恐れをなした神尾五郎大夫守永は、現在地に清昌院殿の菩提寺として理安寺を再建し、墓所・位牌を安置して | |||||||||||||||||||||
守永寺と称した。その際、神尾五郎大夫守永は実家である徳川家康公の近侍・阿茶局、雲光院殿従一位正譽周栄清大姉の位牌も安置した。 のち、大正6年9月30日の大暴風雨により本堂、庫裡共に倒壊し廃寺同様となったが、大正7年6月、当寺十六世、好譽円照上人の中興により再建された。さらに昭和47年3月には五井地区の都市計画事業に伴い、現在の鉄筋コンクリート建本堂、並びに木造庫裡が再建され、平成元年には当時の御本尊である阿弥陀三尊の修復開眼、平成6年には本堂の増築、並びに地下客殿等整備し現在にいたる。 |
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(光明山 守永寺 清昌院 03.03.10掲載) |
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