玉寶山 松林寺 (清光院) 千葉組 80 |
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当寺は、江戸時代初期を代表する浄土宗の学僧照譽了學上人(團蓮社照譽上人遊嶽了學大和尚)が、佐倉城主・土井大炊頭利勝の招きにより土井家の菩提寺として、郷里の愛知県土井から父母と夫人の墓を改葬して、佐倉の弥勒町に建立した寺院である。 当寺の山号・院号は「玉寶山・清光院」という。これは、当寺に改葬されている土井利勝 |
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の父の法名である「寶光院本譽見貞」、母の法名である「玉等院殿清譽壽安」、夫人の法名である「清光院殿浄譽明徹」の三方の法名を巧みに取り入れて名付けたものである。 | |||||||||||||||||||||
当寺の創建年次については諸説がある。現地の『佐倉真砂子』や『寺院明細帳』は慶長10年(1605)9月としている。一方、開山照譽了學上人の履歴を伝える増上寺の『縁山志』(九)には寛永4年(1627)としている。増上寺所蔵の元禄8年(1695)に作成された『浄土宗寺院由緒書』二十四所収の松林寺の項には創建年次が記入されていない。 しかしこれらの諸説を整理すると、土井利 |
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勝の佐倉入りは慶長15年(1610)である。さらに院号の由来たる利勝夫人清光院が亡くなったのは元和3年(1617)である。そのため松林寺がこれ以前の慶長10年(1605)に創建されたものとは考え難く、了學上人の伝記に従って、寛永4年(1627)に檀林・飯沼弘経寺を退き、佐倉の清光寺に隠退され、そこを城主・土井利勝に懇請されて土井家の菩提寺として当寺を開創されたと考える方が妥当であろう。 開山の照譽了學上人は、徳川家康関東入国以前の下総小金城主・高城氏の出身であり、同地の檀林・東漸寺で出家されている。 徳川政権下では、大多喜城主・本多忠勝の帰依をうけ、文禄4年(1595)同地に良信寺(元和元年に良玄寺と改称)を創建している。その後檀林・東漸寺や飯沼弘経寺の歴代を経て、佐倉清光寺に隠退している。この間に慶長16年(1611)には、伊勢桑名城主・本多忠政に招かれて、同地に忠勝の菩提寺西岸寺を創建している。佐倉隠退後は、清光寺と松林寺を兼帯していたようである。寛永9年(1632)には特に幕府に招れて本山増上寺十七世の住職となり、二代将軍秀忠の葬儀の導師の大役を勤めている。これは本山増上寺の住職は次席檀林である小石川伝通院か鎌倉光明寺から入山するのを原則としていた中で、佐倉の田舎寺院から了學上人が増上寺に入山したのは異例のことであった。了學上人の学識と高徳振りが早くから世間に知られていたためであろう。また佐倉城主・土井利勝の働きかけにもよるところが大きかった。増上寺入山後の了學上人の活躍はめざましく、寺内機構の整備と教団発展の基礎を確立されている。そして寛永11年(1634)2月13日に85歳の高齢をもって弟子達に見守られながら入寂された。 その他、当寺の什宝としては、千葉県指定有形文化財の観音堂がある。この観音堂は元の本堂が崩壊したため、現在松林寺の本堂として活用されている。この観音堂は土井利勝が佐倉城築城の際に建立されたものと伝えられ、桟瓦葺(元は草葺)寄棟造、間口柱間3間、奥行同4間の小規模な仏堂である。しかし側柱に面の 大きな角柱を用い、その上に端正な形の三斗を組んだ白木造の外観は、千葉県内の小仏堂では珍しいもので、江戸時代初期の建造物と考えられる。軸部の様式は、内外とも柱上の組物は和様三斗中備は撥束を用い、天井は内陣・外陣とも太めの竿縁天井である。内陣・外陣の境には丸柱が立ち、格子や格子戸を設けていた。外部の戸締りは以前は蔀戸や坂戸であったが、現在はガラス戸に取替えられ、また周囲に下屋底を付す等の改造がなされている。内陣の奥に安置された厨子は、扉や羽目板に優美な彫刻をもち、建築とほぼ同じ時期の作と考えられる。 現在の観音堂の規模から考えて、さぞ創建当時の本堂は立派なものであったと思われる。 |
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(「千葉県浄土宗寺院誌」(昭和57年刊)より 玉宝山 松林寺 清光院 03.03.10掲載) |
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