金澤山 良玄寺 (山王院) 千葉組 77 |
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天正18年、本多忠勝公は大多喜栗山の根古屋城に入り、数年にして大多喜城を築城した。文禄4年9月25日、開山団蓮社照譽了学上人を下総小金東漸寺より招き100石を寄進し良信寺を建立した。忠勝公は在城10年の後、勢州桑名城に移封され慶長15年10月18日ご入寂なされ、分骨を良信寺に埋葬した。法名は、西岸寺院殿前中書長譽良信大 | |||||||||||||||||||||
居士。その後、慶長18年、忠勝公夫人が没し法名は月量院殿蓮譽光信大禅定尼、続いて元和元年、本多忠朝公は大阪夏の陣に34歳にして討死し、法名を三光院殿岸譽前雲州良玄大居士と号した。以降良信寺を良玄寺に改称し現在に至る。上記お三方 | |||||||||||||||||||||
の墓石は今も当山右手墓地の奥に顕在する。尚、本堂は戦後昭和20年代の台風により倒壊しお隣の大円寺の本堂を持って来て以後40数年間両寺で共用していたが、近手檀家一同の気運がみのり、再建に着手、平成9年4月、めでたく落慶の運びとなり現在の威容を誇る。 | |||||||||||||||||||||
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(金沢山 良玄寺 山王院 03.03.10掲載) |
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