觀立山 三福寺 (九品院) 安房組 41 |
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文明3年(1471)、里見氏の家臣・岩崎与次衛門の帰依に基づき、相蓮社順譽上人を開山に浄土宗念佛道場として創建された。 元禄16年(1703)、大地震により倒潰、さらに大正12年(1923)、関東大震災で類焼により全焼したため、貴重な財宝、文献等を失い詳細は不明である。 現在の建物は、大正14年(1925)に再建され |
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たものである。当山第三五世・演蓮社諦譽上人(1925〜1928)が、大正15年(1915)、安房保育園を創立し社会事業益びに幼児教育に尽力したが事業半ばで病死、そのあと我が国社会福祉事業の先駆者・長谷川良信(大巌寺第六十世住職)がその遺業を継 | |||||||||||||||||||||
承、第三七世・山田巌雄、さらに第三八世・河木真静(1931〜1953)が、とくに保育事業の拡充強化に力を注ぎ、園舎の増築、母子寮の新設、人事相談室の開設等、社会福祉事業活動に情熱を傾け隆盛を極めた。しかし第二次世界大戦による社会情勢の急変により、昭和20年(1945)惜しまれながら閉園した。 釈迦如来像。作者・俵孫一(現館山市館山俵石材店代表・俵恒美氏祖父)は、俵石屋に |
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生れ、東京美術学校(現東京芸術大学)に学び、明治彫刻界の巨匠、高村光雲に師事し専ら石彫刻を研究し、将来を嘱望されたが、家業継承のため帰省し再び中央に復帰する機会を失い、その才能を惜しまれた。この釈迦如来像は、容姿端麗で石彫佛像としては非常に秀れた作品である。「明治三十六年十一月建立高村光雲門下俵光石石刻」と刻されている。 新井文山(1779〜1851)。幕末の房州は、江戸文化の影響を受けて詩文が流行し、名主・医者・素封家は、皆多少詩文の嗜みのないものはなかった。加藤霞石、鈴木東海・抱山兄弟等、詩文に於ては相当の人物が輩出したにも拘らず、真の儒者というべき人は多くなかった。その中で、新井文山は唯一の人物であった。漁業の網元(館山市新井)の家に生れた。幼くして父を失い、母は魚の行商をして生計を立て、文山を養育した。母は常に文山を菩提寺三福寺住職・高譽上人秀哲和尚(第二五世中興)に預けた。そして10才〜13才の4年間ばかり、秀哲について学問を学び、天明8年(1788)鈴木直郷(館山市柏崎在住)について修学し、漢籍の句読を受けた。寛政4年(1792)14才で単身江戸に遊学し、杉浦西涯の門に入る。西涯は幕臣で、詩文に長じ書を能くした。その後、昌平祭酒〔唐の時代、大学頭を祭酒と称した(古語辞典)〕林述斎の門を訪れ、下僕として住み込み、その家塾において、佐藤一斉、松崎謙堂と接した。やがて、学問修業を終え立派な学者となり、徳川家に認められ、幕府の儒者として仕官を勧められた。しかし、母に孝養を尽すために辞退し、文化3年(1806)28才の時帰郷し、塾を開き郷土の子弟教育に全力を傾注した。その功績が認められ、領主・稲葉正巳公に知られ、天保7年(1836)、召されて藩主の御前で経書の講義をすることになった。時に文山58才。天保13年(1842)郡奉行となり実務に没頭した。天保9年(1838)帯刀を許され、家臣に列せられ、藩主の信任厚く、天保11年(1840)には、文山家は藩主の訪問を受けた。また、文山は特に書道に堪能であった。文山愛用の碩(赤間石)、木像、書籍類等が曽孫に当る出雲ひで(曽孫)方に保存されている。この碩の銘に「正直公平、天保十二年辛丑、七夕文山」とあり、その蓋の表には「重厚仁者質、一語千百年 文山」と 刻してある。これが文山の座右銘であったとみてよいと思う。このように文山は、藩士や領民の教育に尽粋した。 |
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(「千葉県浄土宗寺院誌」(昭和57年刊)より 観立山 三福寺 九品院 03.03.10掲載) |
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