信樂山 乘蓮寺 (和合院) 君津組 35 |
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当寺は、豊臣秀吉が伏見城築城の頃、文禄3年(1594)8月、時の城主・笠原伊予守氏光が亡父追善の為に開基し、本蓮社存譽源流上人を開山として創建された。開創の年次については、永禄年間とも思われ、現在考証中である。 当初「信楽山(或は笠原山)松岩院・乗蓮寺」と称していたが、昭和54年(1974)「信楽 |
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山・和合院・乗蓮寺」と改称した。 御本尊は、千葉市大巌寺より遷座した木彫の阿弥陀如来で、年代作者等は不詳である。 |
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縁むすびの福授観音は、通称「いぼ観音」と呼ばれてきた石造の聖観世音菩薩像で、寛文6年(1666)10月18日、上総国望陀郡飯富庄台宿村(現在袖ケ浦町代宿)の女衆40人が、現世安穏後生善処を祈念して、財を寄せ合って造立された、まごころのこもった観音像である。 子安観音は、岐阜県揖斐郡谷汲村の天台宗・谷汲山・華厳寺、西国三十三番満願霊場 |
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の十一面観世音の分身と伝えられ、御丈・3尺8寸余の木彫の十一面観世音菩薩で、文殊菩薩の御作と記されている。近年、千葉県教育庁千葉文化財センターの鑑定により、藤原時代(約750年以上前)の仏像であることが判明し、県下で藤原時代の仏像があるのは当寺のみとの説明を受けた。古くから、受胎・安産の秘仏として受継がれ、50年毎の3月20日御開帳の日には、村の女衆によって赤色の腹帯が奉納される慣わしである。 当寺奉安の十一面子安観世音菩薩の御誓願に従って、当寺境内地約1,000坪を袖ケ浦町に無償提供し、現在袖ケ浦町では児童会館・児童遊園地・児童プール等を設備し、代宿地区の児童のために月曜日を除き開放している。 |
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(「千葉県浄土宗寺院誌」(昭和57年刊)より 信楽山 乗蓮寺 和合院 03.03.10掲載) |
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