福徳山 正源寺 (東陽院) 君津組 34 |
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当寺は「鎌倉時代の徳冶2年(1307)時宗の高僧、他阿心教上人により、上総の国初めての念仏根本道場として創建されました。 上人は当一所に数年間の滞在中、民衆に溶け込み念仏の布教に努められ、当時の書物によると「道場は楽しい極楽浄土のごとく、南無阿弥陀佛の歌念仏で賑わっていた」とされ、それまで「安万支」と呼ばれていた当所 |
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が、阿弥陀様が久しく留まられた里、と言うことで「久留里」と言われるなったと言います。 その後、天文15年(1546)久留里城を本城として房総一帯に勢力を振るった、戦国大 |
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名里見氏の庇護を受け、里見家累代の安心佛を本尊とし、里見義尭公を後開基として、宗派を浄土宗に改め、名称も福徳山東陽院正源寺と号すようになりました。 戦国時代が終わり、江戸時代になると、当寺は徳川家の庇護を受けた御朱印寺となり、塔頭四軒・末寺八ヶ寺をもち、朝な夕なの念仏の声は町外れまで響き渡ると言われた大寺 院となりました。 |
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栄枯盛衰は世の習い。徳川政権が終わりを告げ、葵のご紋の権勢が失われると、塔頭・末寺すべてが焼失あるいは荒れ果て廃寺となりました。本坊東陽院も昔日の大伽藍は焼失し、今に残るものは山門の一部と樹齢700年を越す大イチョウのみ。 しかし、明治・大正二昭和と激動の時代を、歴代の住職並びに檀信徒が力をあわせて復興の努力がなされ、現在にいたっております。 |
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(福徳山 正源寺 東陽院 03.03.10掲載) |
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