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夜田山 西了寺  君津組 29

 当山は、五六代・清和天皇第三皇子が元慶8年(884)中秋の頃、上総国周集郡に配流され、延喜10年(910)孟春16日薨去されるや、御母女皇は嘆きの余り、京都比叡山天台座主・良源慈恵僧正の弟子で日本浄土教の先駆・源信和尚恵心僧都を天禄年中に北嶺より下山せしめて、親王の菩提のためこの地に一宇を建立したのを始めとする、と伝え
られる。僧都帰洛の後、本尊を守護するも住僧ないまま朽廃してしまった。
 その後、明暦年中(1655頃)、深川靈巖寺開山・雄譽靈巖上人が当山を再建し、弟子・生譽檀風上人を開山として浄土宗寺院とし、今日に至っている。
 その後、明暦年中(1655頃)、深川靈巖寺開山・雄譽靈巖上人が当山を再建し、弟子・生譽檀風上人を開山として浄土宗寺院とし、今日に至っている。
 当山の「山号」にまつわる伝承を紹介すると、此里に井沢何某という夫婦があり、共に深く当山・阿弥陀如来に帰依していた。ところが、その頃、疫病が流行し、夫婦は病床に臥したままで、田植もできずにいた。ある夜、夢
枕に一老僧現れ、「汝、病中にて、また妻も病に臥れ誠に不便なり、故に今、汝の作れる田残らず植付く、必ず案ずるなかれ、病は近日中に全快すべし、ただし、全快の上は西了寺本尊を一向に信心すべし」と云い終えるや老僧は消えた。四、五日して病は小康を得たので田を見に行くと、田植のすんだ青田が見事に繰りひろげられていた。さっそく寺に参詣したところ、本尊・阿弥陀如来の腰から下は泥に塗れていたという。檀風上人はこれを奉拝し末代まで残るようにと、「照明山」を改め、「夜田植山」(本尊・田植如来)と号し、今「植」の一字を略して、「夜田山」と号するようになった。これが夜田山西了寺の縁起である。

(「千葉県浄土宗寺院誌」(昭和57年刊)より  夜田山 西了寺 03.03.10掲載)


開   山
 生譽檀風上人
開創年次
 1655〜57年(明暦年中)
現 住 職
 関谷 儀朗(兼務)
指定文化財
  
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事業活動
 
住   所
 君津市小山野3
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