海中山 了極寺 (通称 中寺) 葛南組 14 |
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京都伏見に阿波介という陰陽師がおり、世の無常を悟り、法然上人の御教えにより一向専修の念仏者となることが出来た。かくして救われた彼は、衆生済度の為の旅立ちを上人にお願いした。上人は彼の願いを聞き弟子に上人の御姿を写させられ阿波介にお渡しになられた。そこで上人の真影を奉持し多くの人々を教化しつつ、行徳領浮島村(現 | |||||||||||||||||||||
在の高谷)百姓磯貝新兵衛の家に止宿し、村の人々に法話をした。彼の話に感銘した新兵衛は、阿波介の御伴をして教化の旅に出た。約半年後、中尊寺金色堂に至り阿波介は真影を西の柱に掛け、端座合常して往生したといわれる。新兵衛、阿波介 | |||||||||||||||||||||
の志を継いで故郷の浮島村に帰り真影を本尊と仰いで草庵を結び八十歳で往生したといわれる。 上人の水鏡御影が知られるに至り、貞享3年(1686)祐天上人により、法然上人の550回忌の法要を当寺で行われたといわれる。その時書かれた祐天上人真筆の塔婆を村内に悪疫が流行した際、誰言うとなく塔婆を削り呑むと悪疫退散すると吹聴せられ夜中 |
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に削り取る者が現れた為、塔婆を本堂に安置したいわれ現存する。当寺は法然上人水鏡御影の御縁で阿波介より新兵衛と受け継がれ草庵を結び元禄年中に再興し現在に至る。 | |||||||||||||||||||||
(海中山 了極寺 03.03.10掲載) |
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