聖中山 正源寺 (勝壽院) 葛南組 9 |
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当山は、後花園院の御宇、文安元年(1444)に正源上人によって開創された。寺伝によれば、正源上人は下総国八幡の出身で、幼少の頃から賢明の聞え高く、11才のとき葛西金蔵寺の依正上人の許で剃染し、勉学修業の後、血脈伝法を相承した。後、正源寺の前身であった草庵に隠遁して自行化他念仏三昧に徹したといわれる。 | |||||||||||||||||||||
正源上人逝いて百五十余年を経た慶長年中に、東照神君・徳川家康公の御入国のとき、芝嶺の学侶・源長上人がこの地にあって四方を施化し、草庵を改めて一寺とした。源長上人は、増上寺観智国師の法系であったので、国師が家康公に奏して | |||||||||||||||||||||
1,300坪余を賜り、聖中山勝壽院正源寺と称したのである。(源長上人は行徳出身、高橋姓である) 本尊阿弥陀如来は、菅原寺の行基菩薩の直作と伝えられ、霊験あらたかをもって知られている。また、傍仏の如来は、一光三尊善光寺如来であり、正源上人の護持にかかわるもので、後、祐天大僧正が尊崇して、改めて開眼したものという。 |
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鎮守開運大弁財天女は、園城寺の智証大師が感夢によって彫刻したもので、一刀三礼の直作であり、正源上人が当山の鎮護に祀って以来、今日に伝わっている。この弁財天は未だ御開帳の記録がなく、開帳すると盲目になると伝えられ『盲目弁天』ともいわれている。霊験のあるところから、その信仰は盛んで、490年ほどたった寛政・享和の頃が最も栄え、日本橋を中心に多くの信者があった。元治元年7月23日から盲目弁天講が始まり、境内の石鳥居(表門)・大灯籠・小提灯・大提灯等を造営し、盛況を極めたと伝えられる。 本堂は、享保年間に建造されたが、天明六年の津波で大破し、再建後、寛政元年に再び大破、再々建後も寛政12年に隣家の火災で類焼した。度重なる被災にもかかわらず、さらに建立されたが、安政二・三年の震災・風災のため、またもや倒壊するという受難を繰り返している。文久元年に庫裡のみ再建され、文久三年には弁天堂が某信者の手によって建立された。以来、本堂はついに再建ならず、弁天堂一宇となって現在に至っている。 |
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(「千葉県浄土宗寺院誌」(昭和57年刊)より 聖中山 正源寺 勝寿院 03.03.10掲載) |
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