青暘山 善照寺 (慧日院) 葛南組 4 |
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当山は下総國東葛飾郡八幡荘行徳湊村の武士であった青山四良兵衛正貞の寄進によって本蓮社覺誉上人善照潮随和尚により三縁山増上寺の末寺として寛永2年(1625)に建立されたと伝えられている。寺号「善照寺」は増上寺法主了的大僧正より、山号「青暘山」は増上寺法主遵誉上人起屋大僧正より、青山という姓にちなんで賜ったとされてい | |||||||||||||||||||||
る。 潮随和尚は武州小松村の出といわれており元和7年(1621)法然上人自作の座像(鏡御影像)を負い関東に下ったとされている。この座像は現存している。 |
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一方、青山四郎兵衛正貞は相州小田原北条氏直の家臣である青山伊予守家貞のである。伊予守家貞は豊臣秀吉の小田原城攻めにより落人になり、父青山浄故入道、家臣嶋田右衛門、太郎兵衛兄弟と共に房州里見の丸屋東条に身を寄せようと思い海路安房國を目指した。しかし風向き悪く下総國湊村に流れ着いたとされている。青山浄故入道(64歳)、伊予守家貞(16歳)であった。父浄故 | |||||||||||||||||||||
入道は健康状態を害し薬石効なく他界したため湊村に定住することになった。青山伊予守家貞は浦安堀江村の中村騨生の娘を妻とし野武士となり4人の子をもうけた。内記、集人、久左衛門、四郎兵衛である。青山伊予守家貞は69歳で他界した。善照寺は四男四郎兵衛正貞が父伊予守家貞の菩提を弔うために建立したとされている。 | |||||||||||||||||||||
(青暘山 善照寺 慧日院 03.03.10掲載) |
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