海巖山 徳願寺 (善光院) 葛南組 3 |
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徳願寺は、もと普光庵とよばれた草庵で、埼玉県鴻巣にある勝願寺の末寺であった。 慶長15年(1610年)に徳川家康の帰依により、新たに堂宇が建立され、徳願の「徳」と勝願寺の「願」の二文字をとって、「徳願寺」の名が付けられ、聡蓮社円誉不残上人を開山に創設されたものである。 本堂の阿弥陀如来像は、鎌倉時代のはじ |
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はじめ、源頼朝の妻北条政子が霊夢をみて仏師運慶に命じて彫らせたもので、政子の念持仏といわれている。はじめ鎌倉にあったものを、江戸時代に家康が二代将軍秀忠夫人の崇源院のために、江戸城内三ノ丸に遷したが、夫人の逝去後、当山二世 | |||||||||||||||||||||
忠残上人が請けて、本尊として安置した。三代将軍家光からは、本尊供養料として10石の御朱印を賜った。 本堂は8間四面、創建時の堂は安政3年(1865年)に火災に罹り、その後大正5年徳誉信契上人により再建され、柱は阿弥陀仏の四八の誓願になぞられ、48本ある。平成3年に本堂改修され、書院・渡り廊下も新築された。 |
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山門及び鐘楼堂は、共に当寺最古の建物で安永4年(1775年)建立された。仁王像は明治の排仏毀釈により、葛飾八幡の別当法漸寺から移されたものといわれる。 身代観音堂、経蔵、宮本武蔵供養塔がある。 明治4年、印旛県庁が一時本堂に置かれたことがあり、さらに明治6年に行徳小学校が、本寺を仮校舎として開校している。 |
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(海巌山 徳願寺 普光院 03.03.10掲載) |
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