金尾山 金照寺 (清淨院) 東総組 114 |
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千葉一門であり成東一帯を治めていた成東刑部大夫胤教の娘が記主禅師に帰依し、剃髪受戒して出家した。父胤教は現在地へ仏堂を建て、禅師を開山上人と仰ぎ、娘尼僧(清淨院殿法阿弥比丘尼)を住まわせると共に、寺院と尼僧の守護として 高宮源内正経(現在の高宮家先祖)を寺の門前に住まわせたと記録されている。その後成東一族は滅亡 | |||||||||||||||||||||
し、高宮家一戸の菩提寺として現在に至る。同家は代々信仰心厚く「金照寺の廃絶は高宮家の滅亡になる」と家訓を子孫に伝承し、以来七百十余年、その家訓通り法灯を守り継いでいる。その間、同家より出家し住職を務める時期もあり、他の寺院にない | |||||||||||||||||||||
特殊な寺と言える。特に農地解放により広大な耕作地を失い(戦前は松尾駅まで他家の土地を歩かずに行けた)現在は県内で三本の指に入ると言われる美林を経営する同家の外護で維持されている。高宮家の他に檀家として仲條家については、格別の資料も見い出されないが、言い伝えによれば、尼僧並びに高宮家に随従した医師であったらしい。金尾地区に高宮姓を名乗る家が散在するが | |||||||||||||||||||||
、檀家ではないので、高宮家(宗家)だけで護持する寺院であったと思われる。創建当時の仏堂は台風で倒壊したと伝えられ、什物なども盗難にあって散失してしまった。座像の阿弥陀仏は増上寺焼失の後、代わりにと請われたこともあったが固くお断り申したということである。 | |||||||||||||||||||||
(金尾山 金照寺 清浄院 03.03.10掲載) |
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