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鏑木山 光明寺 (胤定院)  東総組 109

 『三祖言行録』に「下総国鏑木に九郎入道胤定なる者あり、深く上人の道化に帰し建長の頃一寺を創建し上人を請して開山となす云々」とあり、『禪師行状絵詞』には「延応、仁治の頃−中略−鏑木九郎胤定といへるあり、我城に一寺を創建して師を請して開山とせり云々」とある。これら種々の伝記等によると、当寺は、三祖良忠上人が建長年間下
総に布教された時期、建長5年(1254)頃、千葉一門鏑木九郎胤定により建立されたとある。当寺の現今の位置については、鏑木城跡近くにあり、当時の所在地と 思われるが、鏑木城主の墓、および第30代以前の住職の墓が一つも存在しない。又、良忠
上人は当寺において建長6年8月、城主胤定のために『撰擇伝弘決疑紗』を述作しており、その後正嘉元年(1257)3月から翌年3月までの1年間、当寺と西福寺において『伝通記』を講説している。良忠上人は下総において数々の講義、多くの著述を残しているが、当寺がその基盤となったのは間違いないところである。
 当寺には、多くの寺宝があったとされるが
現存しておらず、行事においても「引接来迎と称し、境内に櫓を設けて二五菩薩の面を被りてねり歩き荘厳を極め、二五菩薩来迎の様を数日間にわたり観覧させた」と云うが、その面もなく、明治18年に行なわれたのが最後と伝えられる。
 伝説としては、良忠上人在住の時、飲料水の乏しいのを憂い、竜神に祈ると清泉が湧いたので、これを号して祈水の阿伽井と名づけ、池を設けて竜神および弁財天を祀ったとある。さらに、この祈水により、伝通記決疑砂を書した時、余りに蛙が鳴いて著作の妨げとなったので、鳴き止むよう祈ったところ、蛙の鳴き声が止ったとされ、以後里人は蛙の鳴くのを聞かず、この池を「蛙止池」と呼んだという。又、『記主禅師行状絵詞伝』には、良忠上人が或人の請により放生慈済を修せられた時、鯉の額に朱字梵書したところ、その池の鯉の額上に朱点あらわれたので、これを記主鯉と称したと伝えている。
 江戸初期に二七世良憲が当寺を中興し、寺領として朱印30石を家康から賜わった。浄土宗関東十八檀林の末座に準ずる大寺と称して、50石以上の格に準じ、江戸時代には独礼地として特権を得ていた。同国金照寺・光泉寺・円光寺などは末山で、このほかに数多の末寺を有していた。しかしいつの頃からか衰亡し、銚子浄国寺による兼務寺院として現在に至っている。

(「千葉県浄土宗寺院誌」(昭和57年刊)より  鏑木山 光明寺 胤定院 03.03.10掲載)


開   山
 記主禪師然阿良忠上人
開創年次
 1254年(建長5年)一説には1239年
現 住 職
 杉山 春雄
指定文化財
  
年中行事
 
事業活動
 
住   所
 旭市鏑木1794
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交   通
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