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靈光山 瑞安寺 (桂林院)  千葉組 63

 開山は寂蓮社照譽上人、開創年次は慶長元年とされ、以来今日に至っているが、江戸末期の文政10年より、徳川譜代の家臣であった水野家が鶴牧藩主となり、三代・45年間にわたる在封期間を通じてその菩提寺となっていた関係上、幕末戌申の役の災禍を受け、過去穣・旧記等の大方を焼失してしまったといわれる。従って詳細については不明な
点が多い。
 境内文珠堂に安置されている「金剛界阿羅波左曩五文字文珠菩薩像」は、造像記年は明らかではないが、寄木彫りであることやお姿の優雅な作風から推して、平安
後期に寄木彫りを創始した巨匠・定朝の流れを継ぐものであろうことは充分察知される 寺伝によれば、正徳3年3月、椎津浦の漁夫・五郎左衛門が、祖先の霊夢を感じて出漁したところ、海上はるかに金色燦然と光明を放つものがあり、近寄ってみると、五髪に理路を戴き、左手に経巻を、右手に金剛劔をたずさえ、獅子王座の蓮華にお立ちになられた御丈・7尺3寸の文珠菩薩尊像であったので、驚
きあやしんで恭々しく船中に奉じ、菩提寺の瑞安寺に安置中し上げることになった。当山十六世・浄譽上人は、直ちに浄財を勧募し、境内に3間四面の文珠堂を建立、毎月25日の縁日御開帳を始められたと伝えられる。爾来、海の豊穣・豊漁を祈願する遠近の老若男女・お針娘・手習子供などの参詣絶えず「海中出現文珠菩薩霊場」として信仰されてきた。しかし、歳月と共に堂宇は老朽化して、殊に昭和10年の国道拡巾改修工事に際しては、この由緒ある堂宇を取毀し、尊像を本堂の一隅に遷坐申し上げることを余儀なくされた。戦後の昭和44年、当山三一世・心阿賢雄上人の代になって、ようやく再建の悲願が実り、檀信徒一同の協力によって、尊像修復と徳教啓発道場としての堂宇再建とが実現した。現在は、家庭円満・学業成就・進学祈願の海中出現知恵の文珠菩薩として、参詣者が多い。
 「空荼毘供養」の行事にまつわる伝承としては、その昔、群雄割拠の戦国時代に椎津城主・小太郎義昌は、善政を布いて領民に慕われていたが、敵対する北条氏康の軍勢に攻められてあえなく落城し、城主は自刃したとも脱出したともいわれ亡骸は発見できなかった。亡き殿を慕う領民たちは、せめて心だけの葬儀を、と涙ながらに空の棺を荼毘に付し、ひそかに葬儀を出して冥福を祈ったという。これが「空荼毘供養」の始まりだと語り伝えられている。
 孟蘭盆8月15日、朝から境内に集まって来た大勢の若者たちは、大きな台車の上に馬簾を下げ、義昌公の人形を祀り、空の棺を戴せ、新盆の各家から集めた盆提灯を飾りつけ、手造の万燈を仕立てる。午後7時頃、本堂前の祭壇で義昌公はじめ今日までの戦没者供養を修し、万燈に一斉に灯が点ると、若者連や大勢の子供たちの掛声とともに、にぎやかな行列となって城跡まで繰り進み、城跡に着くと飾り付けた馬簾がはずされる。見物の人々は我先にとこの馬簾を奪い合い、各家の門口にたてて一年間の息災が祈られるのである。一方、若者たちは、代表一人を棺に入れ、泣き声をあげて棺を担ぎ、ドンドン叩きながら一目散に瑞安寺にむかい境内でぐるぐる廻った後、墓地に棺を安置する。そこで子供たちや見物の人々は御霊に参り、五穀豊穣・家内安全を願いつつ若者から果物の施しを受けて帰途につくのである。人々の去ったあとの境内は、夏の宵闇に無数のローソクの灯がゆらめき香煙が漂って、素朴で永い伝統ある行事の後の夜が静かに更けて 行くのである。
 また「徳川義軍之墓碑」は境内本堂前の一隅にある。江戸末期、当山を菩提寺とした鶴牧藩主・水野家は、禄高わずか1万5千石とはいえ、徳川三河以来の直参の旗本としての誇りと忠誠心は、家中一同軽輩に至るまで充分に徹底していたと言われる。現在の市原市立姉崎小学校の所在地が、その居城・鶴牧城跡である。
 慶応四年三月、討幕の火の手は全国各地に挙がったが、鶴牧藩は当然幕軍の立場をとり最後の一線を死守する構えをみせていた。翌月の4月5日には、早くも官軍薩摩勢は養老川まで押し寄せ、抗戦か降伏かの最後通告を突きつけてきた。鶴牧城内では、徳川幕府の存亡と主家・水野家の安否を思う和戦両派の激論が闘わされ、熱涙を絞っての激しい論議は7日の未明にまで及んだといわれる。その結果、藩論はついに「降伏止むなし」と決した。ところがその日の昼近く、混乱の鶴牧城大手門外に官軍よりの酒樽一本が届いた。さてはと、鏡板を取払ってみると中は鮮血にまみれた五ツの生首であった。もちろん鶴牧藩士の首級である。当山に残る僅な資料によれば『慶応四年四月七日付、徳川義軍府戦争死。秋元吉左衛門(45才)・金子三左衛門(30才)・平井弥五郎(30才)・山田己之助(30才)・小谷平四郎(17才)』とあり、これら五藩士は、藩論の動向を快しとせず降伏決定を不満として、この日の未明、官軍の陣営正面に自刃をかざして斬込みをかけ、討死したもので、その首級が樽詰めされて届けられたのであった。賊軍の汚名の許に瑞安寺の海辺にひそかに埋葬されたという。その後、明治27年になって寺内墓地の片隅に改葬され、粗末な墓石が残されている。現在の墓碑は、当山三一世・心阿賢雄上人が義軍百年忌に私財を投じて建立したものである。徳川譜代の恩義、死を以って義に殉ずる、こうした事の良し悪しは時の歴史の決めることであろうと、村人たちは常に霊前に香華を捧げ、無縁塚同様ではあっても冥福を祈り供養を続けてきた。この先祖や先輩たちの心情を引き継いで、昭和51年5月には椎津青年会を中心に、地元各会を挙げて第一回徳川義軍祭が行われ、鶴牧城跡から当山まで、御霊奉迎練供養が営まれた。五年に一度の行事として同55年には第二回の供養を厳修し今日に至っている。

(「千葉県浄土宗寺院誌」(昭和57年刊)より  霊光山 瑞安寺 桂林院 03.03.10掲載)


開   山
 寂蓮社照譽上人雲秀大和尚
開創年次
 1595年(慶長元年)
現 住 職
 黒田 耕彌
指定文化財
  
年中行事
 
事業活動
 
住   所
 市原市椎津131
電   話
 0436−51−0216
交   通
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